彷徨うキムンカムイ

家の鍵失くしちゃった

失踪終了11日前の現在

最近よくスペースなどに顔を出しているが、11日前の現時点でかなり進展があったことを報告したい。

 

収入、支出の状況

事務代行業を営みつつ特定業種に絞ったマーケのコンサルもやっており、11月の月次決算は個人で粗利50万、会社で250万に到達した。その大半は業務自動化のための設備、技術および標準化にあたって必要な諸々に投資している。個人で使用人として働いて下さるかたは2名、人件費もなかなか大変だ。

生活は必然的に慎ましいものになる。食費は1か月で1万円、水道光熱費だけは2万円ほど。AWSでEC2インスタンスをいくつも立ち上げて遊んだり、3万円弱の天体望遠鏡を買ったりするあたり、無駄遣いしていると言えばそうなのかもしれない。サブスクリプションは必要最小限に絞っていて、日経新聞は3年ぶりに解約した。新聞は業種の市況や法改正を探るために利用していたが、常に報道に出る前の一次資料を見ており、記事をきっかけにしなくても情報を追いかけているから、との判断だ。

 

地域での暮らし

現在居住する近畿南部の物件はまもなく去る、大家さんと夜も昼もなく話した結果、一緒にお借りしている車両は返還し、家の管理維持については今後も私が務めることになった。将来に備え、大家さんのご家族と一緒に考えたスキームがあるけど、それは個人情報にあたるので伏せておく。

必要最低限の修繕については、公民館やLINEチャットで何度もお話した地元業者さんの協力のもとで実現しそうだ。

人脈作りのための対面での交流は土日と平日夜に限定される。これが結構辛い。最初は帰宅時に夜の闇の恐怖を思い出させられ、次第に神経系統が回復していない足の不便さを実感させられるようになった。夜道はiPhoneのフラッシュ部分からの光で照らしつつ、友人や仕事先とチャットしながら歩く。

 

新しく得たスキル

クライアントに何か悩みを打ち明けられると何でも預かって調べて対応しようとする癖があり、事業内で行うことが事務代行に留まらなくなりつつある。代行する事務には一定の性質があり、そのせいもあって、DXに遅れが見られる分野だ。最近はオライリーの本から富士通メディアラーニング出版の本まで色々買って(先に述べた投資の一部である)、クライアントの業務標準化から各種SaaSの導入支援までやるようになった。これに伴い、日単位でITの知識が増えている。

代行する事務の大半は自分でカスタムした生成AIその他諸々で自動化できているというのもあって、遠慮なく学習や交流に時間を割けるのが良い。技術者として経験を積んでいきたいな、とも思う。

 

気付き、メンタルの変化

失踪開始時の内なるテーマとして「人生の乱数調整」があった。それはあんまり達成できていないように思われる。結局、元の生活で得ていたスキルで日銭を稼ぎ、飯を食い、日々生活しているようなものだから。

ただ、以下のような気付きがあり、精神状態は落ち着きはじめている。

  • 元の人脈をなるべく活用しないという制限を課すことで、自分の市場価値を再確認できた。一定の分野に絞られるが、いまをときめく問題をダブルスキルを駆使してワンストップで(しかもリモートで)解決できる人は、どうも少ないらしい。
  • 指摘され、意外と「私に嫉妬している人」が多いことに気付いた。失踪前には、私のハンデを俎上に載せて本質とは無関係の批判をしてくる人や、友人の数の多寡で卑屈な発言をする人などもあったが、振り返ってみると妬ましかったのかもしれない。
  • 補記:何が妬ましいのか不明。睡眠時間を極限まで削るなどの危険な行為をやった上で、勉強なり仕事なり、こうやってブログを書く行為なりをしているわけで、実態は愚昧で貧しい人間なのに。これを分かってくれるのは、失踪企図の支援者や、私の生存に気付いてくれて積極的に連絡してくれた親友だけである。
  • 失踪前に悩ましかった問題の全てが、私を含めてそれぞれの関係者が自らの責任を引き受ける形で、急速に整理されているように思われる。希望の混線がなくなり、私の本当にやりたいことが見つかった。
  • 外国籍の優秀な方(特に使用人の方)との交流を通じて、自らの可能性を限定する文化圏に無理に留まるのは良くないと思った。

 

最後に。

失踪100日が終わった翌日には、地元やSNSにあった繋がりに復帰するつもりであった。しかし、10年来の親友でもある弁護士の奨めなども受け、現状回復している繋がり以外とは離別しようと思う。こういう経験は初めてなので、どうなるか分からない。

最近は、失踪企図前に使用していたスマートフォンを使い、その筐体で繋がっていた人との連絡をぼちぼちと再会している。大半の人(特に地元の繋がりの人)はトークを非表示にして、もう何も見ないつもりでいる。

 

失踪企図が終わったら、籍を置く教会にクリスマス礼拝に行く。「不幸全部乗せ人間」を自称していたが、どうも私には並外れた運があるようだ。運命に感謝しに行きたい。

それから、今回の支援者や親友たちに、もらった恩を返したい。金銭的価値があるもので当然返していくわけだが、まだ十分に稼げていないのが口惜しい。必ず近いうちに、かなり生活を切り詰めてでも返済しようと思っている。

 

以上。

 

ブログ主の前に失踪企図した少年の話

昔々の話である。

お客様に呼ばれて行くと、ひと目で中高生と分かる少年が腰掛けていた。年齢を自己申告してもらい、申し訳ないが未成年者はご利用になりません、黒服に掛け合って返金させますから今日は気を付けてお帰り下さい、と述べる。

少年は「今日はここで寝かせてもらうだけでいい」と言った。家に帰ったらええやんと言うと首を振る。普段は父親と二人暮らしだが、以前から家を離れたく思っており、今日衝動的に実行したと。

 

言い分の裏にある事情に心当たりがないわけでもないので、店に戻って返金させ、少年を連れて帰宅した。待機時間に勉強しながら短時間で大金を稼げるのはありがたかったが、年齢確認してない店なんかで働くとガサ入った時に迷惑やで、カネは貯めすぎてるくらいやしパネル消させて飛ぶか、と内心呟きながらのことだった。

少年に自分の布団を使わせて、自分は勉強机に腰掛けた。少年が眠つくまで話を聞いた。父親の話は全然聞けなかったが、歩き方がおかしかったのは、骨折しても保険証を渡してもらえず病院に行けなかったせいだと聞いた。服の隙間から痣や擦傷が多数見えた。とにかく、話としては、人肌が恋しくて店に来たこと、半分死ぬつもりでいたことは分かった。

 

私は一睡も出来なかった。筋として正しいのは警察と児童相談所への通報だ。眠れなかったのは、頭の中のもう一人の自分、ガキの自分が「それは間違いだ」とやたら噛みついてきたせいだ。ガキの私は児童相談所に行って救われたか?警察は実母の調書を取って、そのあと何かしてくれたか?違うだろ。このまま匿って未成年者略取で逮捕されるのが、むしろ少年のためではないのか。

 

結局、警察と児童相談所に通報した。翌朝父親から電話がかかってきて、ご丁寧に少年が出てしまったため、付き添って帰宅してもらう羽目になった。父親の挙措は「やたら臆病で礼儀正しく、気遣いが多い」ものだった。ガキの私が「そうそう、大体こういうやつなんだよね」と言ってた。

いま、少年がどうしているのか分からない。幸せであることを願う。私は弱く、制度と手続と社会には勝てない。

 

 

抑鬱状態_4

新幹線で1時間揺られ、5つの国のことばでアナウンスが流れる車両に乗ると、大抵は窓辺の灯も消え始める時間帯になる。降車すると徒歩40分ほど歩き、見慣れた一軒家に包丁を持って侵入した。侵入した家屋では2組の男女が休んでいる。手切れ金と土下座だけだった男の両親と、男に新幹線に飛び込んで死ぬと予告した女。同世代の馴染みの女性との普通の結婚に勝るものはない、いずれ君にも分かるだろうと言った男。私は全員を滅多刺しにした。

玄関を出ると馴染みのハイエースが止まっていて、その中から眼球だけを動かして私を咎める人がいた。彼の身体の硬直は間もなく心臓に達するだろう。ウインドウ越しに目礼して歩き去ろうとする。

 

***

 

朝日が差し込んできて、実はまだ新大阪駅近くの事故物件にいると気づいた。布団の中で「ああ神様、今日も罪を犯さずに済みました、人を殺めずに済みました」と嬉し涙を流しながら祈った。また夜が来て、眠っている間に身体が動くまいかと不安になる。左手と机の足を手錠で結んで布団に入る日もあった。

 

14年か15年ほどの時を経て、またあの悪夢が再開した。この少し前までは「愛情表現」として行われた恐ろしい発言と、彼と私の友人との間にあった酷い出来事に気付いた日のこと、そのほかにも色んな事実が夢に出た。

夜眠ると凶器を片手に集合住宅を見上げている。股ぐらが痛い。子宮がまだ痛い。明日は2箇所の通院がある。

失踪の人生

ブログ主こと失踪の生き様は極めて特異であり、それを自ら恥じている。私の「表現が下手なのに全てに言及しなければ気が済まない」との特性の兼ね合いで、つい自己開示してしまうが、その度にやってしまったと後悔する。

自分の気が楽になるので、他人に責任を軽くおっ被せておこう……穏やかな生活をしてきた人に「ほんとなの?」と嫌味を差し込まれた経験が未だショックなのかもしれない。

 

前置きはここまでにして、今までの人生を振り返る。

 

2007年(平成19年)9月:

3年生の初期から高校中退の手続きを始める。通っていた私立校では、中退の理由を含めて極めて異例の事態だった。そりゃそうだ。中等部から親の出資で歯列矯正するのが当たり前の世界で、何処ぞの最貧困層の私は異物以外の何者でも無かった。しかし困ったことに、私の為に教職員会議まで開かれるなど、大変な騒ぎになった。

だが、適時適切なフォローにより、同年1回目の高校卒業程度認定試験に通過、大学入試の願書提出なども進められた。簿記の試験も受けた。教師らの尽力は後述の通り実らなかったが、感謝している。

 

2008年(平成20年)3月〜11月:

諸事情により進学に失敗。一切の夢を一時見失う。きょうだいの進学を控えていたため、高単価のアルバイトに励む。

世間ではリーマンショックと呼ばれる大恐慌が始まる。

 

同年12月:19歳、服毒自殺に失敗。別居親に身元を引き受けられ、退院後、西日本のとある地方の屋敷に2週間ほど軟禁される。翌年監護親の元に一時戻り、Skype上の知人を頼って出稼ぎに行く。

 

2009年(平成21年)2月〜10月:東海地方の社会福祉法人の代表及び共同経営者の下、休職中の従業員が戻ってくるまでとの条件で、会計業務に携わりながら無資格で出来る範囲で介護の現場に出る。温情による措置だった。代表者(※自身も進行性の難病で随時介護を要する状態だった、2年後に死去)の身の回りの手伝いなど、雑用も行う。不自由な身体で経営管理を行われる様子を見て、使用されていた先端技術に関心を持つ。

初めての出稼ぎ・一人暮らし。そしてようやく成人する。

 

同年11月〜12月:地元に戻り就職活動開始するも、恐慌の余波の中で難航。一時はネカフェ難民になり、住居もかなりキツめの心理的瑕疵のある事故物件を選ぶなどして、出稼ぎで得た収入を食い潰さないようにした。

そんな折、転職エージェントに学歴につき不適切な表現でガン詰めされ、活動自体が嫌になる。同時に、最初に働いていた社会福祉法人に戻る予定につき、結婚の予定ごと潰れる。

これで廃人になってもおかしくなかったが、価値観を変えることで生き残れた。

 

2010年(平成22年):モバイル端末最大手の電話によるカスタマーサポートとガールズバーの掛け持ちを始める。週4で働いて残り3日のいずれかは大学に潜るなど、ダメ人間と化す。人脈が出来て少し人生が豊かになる。21歳。

 

〜2011年(平成23年)9月:年の初めからコールセンターと不動産屋のパシリを兼業。3月、東日本大震災発生。この日たまたま出入りしていた商業ビル内の喫煙所で元夫と出会う。

 

同年10月〜:前述のパシリをやった会社に拾われ、人生で初めて正社員になる。不動産仲介業の営業事務として入ったが、結局、事務方にはならなかった。入社直後、とりあえず宅建取得。22歳。

気付くと別事業でやっていた自社管理物件のPM・BMもやり始め、地上げもやらされ、建設業の方にも首を突っ込むことになり、言うなれば何から何までやることになる。口を滑らせてPCを自作できる旨を伝えると、情シスみたいなことまでやらされた。しんどかったが給料はめちゃくちゃもらった。

 

2013年(平成25年):気付くとまもなく24歳。勤め先は震災後バブルが来ていた新事業に手を出そうとして揉めていた。パートナーシップ契約を締結している大手会社との競業関係になってしまうためだ。忙しくなりそうだったので鑑定などの資格を先に取得する。

結局新事業は走り出し、そこで営業マンとして大いに励むことになった。しかし蓋を開けてみると採算が取れない性質のものであり、会社が傾くきっかけになる。 

 

2016年(平成28年)初春:勤務先、事実上の破綻。この年、合格を目指していた試験の第一関門を通過。失業の予感はあり、逆に勉強に身が入った。

次の仕事はすぐ見つかったが、地銀の債権回収部門で精神をすり減らすことになる。法曹系の資格により即戦力扱いで始めたのは、所謂「取り立て屋」。住民票の転入出をひたすら追っかけて、最後が"除票"になっていなければ訴状を作る仕事。仕事は数か月と続かなかった。起業の準備と称して一時引きこもる。

 

同年下旬:27歳になるのと前後して、趣味でやっていた貯金と創業融資で不動産屋を始める。母方の尊属が母を残して全滅した関係で、その後なんやかんやあり、開発計画の噂があった地面が良い感じに転がり込んできた(とりあえず母名義で転がり込ませた)のが幸先良かった。

 

〜2019年(平成31年・令和1年):許認可目当てで事業買収するなどして規模を拡大。仲介、賃貸、買取、管理、内装・設備、設備リースの6事業を展開。個人でも大規模マンションの住戸などが転がり込んできて、運用を始める。

最高だったのは、仕事が勉強を兼ねる好循環が生まれ、念願の試験に合格したこと。家族や社員を抱えているため合格証を握りしめて自分の道を進むことは叶わなかったが、人生のクライマックスだった。

やがて私は30歳の節目を迎え、ややモラトリアムに。

 

2020年(令和2年)〜:例の病が日本に上陸する。緊急事態宣言の後、夏頃から業績に着弾。以降のことは思い出すと動悸がするので省略。ちなみに腎盂腎炎を発症した。31歳、憂世。

 

2022年(令和4年)冬:コロナ禍を乗り越えたかと思った時期、元夫について発覚したことがあり、色々あって離婚。33歳、厄年。

 

2023年(令和5年):会社は同業者の義実家が大株主となっており、離婚に伴うシビアな大人の事情で退任する。退任後、勤続年数の長い社員さんが集団で謀反したらしく、延々と助けを求められた。誰も悪くないので、気持ちよくファックサインすることもままならず。

離婚後すぐに新しい出会いはあったが、これも著しくダメだった。やっと見つけた「発達障害の仲間」だったが、成功体験を根拠に病識を手放したがる人であり、同時に一定の狭い対人関係について重い特性があった。別れてから秘されていたトラブルが次々に発覚し、対応せざるを得ない状況に陥る。裏切りという言葉は使いたくないが、完璧に人間不信になる。2009年以来のメンタル大恐慌

体にも不本意な異変があり、医学的処置を受けながら公の活動に励む。腹痛を覚えながらDiscordで普通っぽく話してたのは面白い。ここで限界に達し、発狂して今に至る。齢34歳、クリスチャンにも関わらず潜伏先で位牌を作るなど、奇行は未だ続く。

 

以上。

抑鬱状態_3

左腕のリストカット跡を見る。これは私がやったものではないことは、生育歴を調べる中で証明された。あるタイミングで、やった人間の左腕の余白が足りなくなったのだ。

5時間以上の意識消失を伴う頭部外傷。2階の窓からの落下事故だった。その事故の際に児童相談所の介入があり、世間では阪神大震災があり、私は1年近く啞になっていたと聞く。一説では、頭部外傷もこの障がいのリスクファクターらしい。加えて、胎内にいる時に一日一箱半の喫煙があり、医師に咎められていたとのこと。

 

もし〜だったら、はない。後遺障害だったらと不安に思っても無駄だ。映画『ジョーカー』を観た時に、こんなものを軽々しくエンターテイメントにするな、とズレた感想を抱く。

電車の上り・下りが認識できないせいで外出に怯える今日のような日は、すごく辛くなる。

抑鬱状態_2

黒澤明監督のデビューは彼が33歳の時だった。私は先日34歳になった。これくらいの年齢で、どうも何かが分岐するらしい。同じ道を歩んできたつもりの人が、それぞれ全く異なる世界へと歩を進めている。そうしているうちにやたらめったら喧嘩したり疎遠になったりする者同士もいるが、記憶にある限り自分にそういう経験はない。死んだふりをしている今すら、嫌われもせず苦にもされない腐れ縁みたいなのが山ほどある。別に仲がいいわけでもないし、流行りのSNSの繋がりなんかはむしろ避けているくらいだが、何故か縁が切れない。

 

***

 

そんな私を他人はこう評価する。「共感性がある」とか「誰にでも欲しい言葉をくれる」だとか。一般的ではない話に対して反応がごく自然だとか、色々。

そんな良いものではない、ただのビョーキの症状であると私は叫びたい。

 

***

 

私は生来孤独だった。主観的な話である。

時間や奥行きや縦横のない空間から突然質量のない肉体が現れて、外側から遺伝情報を押し込まれるような、そんな感覚が気付いた時から纏わりついていた。母親のサイケデリックなこころ。地方中小企業の社長が抱く野心と理念。そういうものが侵入してくる感覚に嫌気がさした私は、自分の中身をパンパンに膨らませる事で、大気圧に抵抗するようになった。自分のように存在が曖昧な人間はそういないと気付くと、ますます膨張して抵抗するようになった。

 

私には大いに不安に思うことがある。自分が破裂して漏れ出さないか、逆に大気圧に負けることがないか。私は、隔絶された自らの内側、孤独の核、どこからか出てきた元は虚な空間で満足している。私の中身は分からない。物質なのか心なのか観念なのか、いっさい特定できていない。特定する必要もなく、ただ保全すれば十分なのだろう。とにかく表面を滑らかにして、摩擦抵抗力を極限まで下げ、大気と私の中身が破裂して交わる現象を避け続けるだけ。目的はないが、純粋な孤独を保つ。

 

みんなが「善い人」と呼ぶ私の真相はそれなのだ。人間の形をした用途のない無菌室。所詮そんなものである、とお見知り置き下さい。

抑鬱状態_1

営業と懇親会のため上京した折、必要なものを買い込んでおいた。自立式のちょうどいい長さの杖、ショッピングカート、無印良品のランタン、ルームソックス。
生意気だが、必需品を買うだけで資産が大幅に減る体験は久しぶりだ。考えて買い物する行動は、慢性的に生じる物悲しさを和らげる。一週目の、単なる「お金が欲しい若者」の人生には存在しなかった感情。

 

***

 

気が触れて出奔する前の人生で築いた人間関係は、もう遠いものになった。真に心の空白を打ち明けられた人々は皆たいへん優秀で、私の出奔と前後して遠くに行ってしまった。
20代の初めに出会った士業の先輩(もともとあった財産を有償で管理してくださっている人)は言う。何にも期待しない、積み重ねに意味のある課題を日々淡々とこなすだけが人生だ、君なら出来るでしょと。彼は物心つく前から福祉施設で養育された人だから、ほとんど先天的に人情を持ち合わせていない。標準語が良く似合う。中途半端に承認されたい私のような”人情家”に比べれば爽やかなものだ。

 

***

 

命の代わりに人生の連続性を断とうしてから初めて気付く。テイカーとして保証のない夢を語る傍らで意識的にギバーとして振舞った行為には、大して意味がなかった。

この日記の書き手について同一性を認識できる僅かな人々を除いて、LINEの友達リストに何人もいた「真面目に向き合った人」は、もう誰も私のことを覚えていないと思う。金銭的に援助した相手、本人が社会的に追い詰められる中で精神的に援助した相手に「あれはただの八方美人だったよね」「あんなに”良い人”じゃナメられて当然」と事もなげに評価されているのは、薄々気づいている。


いや、本当は、ずっと前から気付いていた。偉そうで恩着せがましいから言わなかっただけだ。
自分と同じ苦労を背負う可能性がある人に無条件で与えるのは、所詮ただの自己満足だ。同類の多くは奪う人生を選択しており、借用書を作っても返済しないばかりか、嫉妬や同族嫌悪・理解できないものに対する一方的な拒否を引っ掛けてくるだけ。

 

***

 

真夜中、断熱性能の断の字もない部屋で、パソコンとランタンの光を浴びながら思う。やっぱり最初から独りぼっちだった。ただ私は普通の健常かつ善良な人になりたかっただけなのに。何でもないような顔をしていつも傍にあってくれるのは、与えられた課題と、知識、人間の技と、まだnullの膨大な未来だけ。