彷徨うキムンカムイ

家の鍵失くしちゃった

抑鬱状態_2

黒澤明監督のデビューは彼が33歳の時だった。私は先日34歳になった。これくらいの年齢で、どうも何かが分岐するらしい。同じ道を歩んできたつもりの人が、それぞれ全く異なる世界へと歩を進めている。そうしているうちにやたらめったら喧嘩したり疎遠になったりする者同士もいるが、記憶にある限り自分にそういう経験はない。死んだふりをしている今すら、嫌われもせず苦にもされない腐れ縁みたいなのが山ほどある。別に仲がいいわけでもないし、流行りのSNSの繋がりなんかはむしろ避けているくらいだが、何故か縁が切れない。

 

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そんな私を他人はこう評価する。「共感性がある」とか「誰にでも欲しい言葉をくれる」だとか。一般的ではない話に対して反応がごく自然だとか、色々。

そんな良いものではない、ただのビョーキの症状であると私は叫びたい。

 

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私は生来孤独だった。主観的な話である。

時間や奥行きや縦横のない空間から突然質量のない肉体が現れて、外側から遺伝情報を押し込まれるような、そんな感覚が気付いた時から纏わりついていた。母親のサイケデリックなこころ。地方中小企業の社長が抱く野心と理念。そういうものが侵入してくる感覚に嫌気がさした私は、自分の中身をパンパンに膨らませる事で、大気圧に抵抗するようになった。自分のように存在が曖昧な人間はそういないと気付くと、ますます膨張して抵抗するようになった。

 

私には大いに不安に思うことがある。自分が破裂して漏れ出さないか、逆に大気圧に負けることがないか。私は、隔絶された自らの内側、孤独の核、どこからか出てきた元は虚な空間で満足している。私の中身は分からない。物質なのか心なのか観念なのか、いっさい特定できていない。特定する必要もなく、ただ保全すれば十分なのだろう。とにかく表面を滑らかにして、摩擦抵抗力を極限まで下げ、大気と私の中身が破裂して交わる現象を避け続けるだけ。目的はないが、純粋な孤独を保つ。

 

みんなが「善い人」と呼ぶ私の真相はそれなのだ。人間の形をした用途のない無菌室。所詮そんなものである、とお見知り置き下さい。