彷徨うキムンカムイ

家の鍵失くしちゃった

失踪の人生

ブログ主こと失踪の生き様は極めて特異であり、それを自ら恥じている。私の「表現が下手なのに全てに言及しなければ気が済まない」との特性の兼ね合いで、つい自己開示してしまうが、その度にやってしまったと後悔する。

自分の気が楽になるので、他人に責任を軽くおっ被せておこう……穏やかな生活をしてきた人に「ほんとなの?」と嫌味を差し込まれた経験が未だショックなのかもしれない。

 

前置きはここまでにして、今までの人生を振り返る。

 

2007年(平成19年)9月:

3年生の初期から高校中退の手続きを始める。通っていた私立校では、中退の理由を含めて極めて異例の事態だった。そりゃそうだ。中等部から親の出資で歯列矯正するのが当たり前の世界で、何処ぞの最貧困層の私は異物以外の何者でも無かった。しかし困ったことに、私の為に教職員会議まで開かれるなど、大変な騒ぎになった。

だが、適時適切なフォローにより、同年1回目の高校卒業程度認定試験に通過、大学入試の願書提出なども進められた。簿記の試験も受けた。教師らの尽力は後述の通り実らなかったが、感謝している。

 

2008年(平成20年)3月〜11月:

諸事情により進学に失敗。一切の夢を一時見失う。きょうだいの進学を控えていたため、高単価のアルバイトに励む。

世間ではリーマンショックと呼ばれる大恐慌が始まる。

 

同年12月:19歳、服毒自殺に失敗。別居親に身元を引き受けられ、退院後、西日本のとある地方の屋敷に2週間ほど軟禁される。翌年監護親の元に一時戻り、Skype上の知人を頼って出稼ぎに行く。

 

2009年(平成21年)2月〜10月:東海地方の社会福祉法人の代表及び共同経営者の下、休職中の従業員が戻ってくるまでとの条件で、会計業務に携わりながら無資格で出来る範囲で介護の現場に出る。温情による措置だった。代表者(※自身も進行性の難病で随時介護を要する状態だった、2年後に死去)の身の回りの手伝いなど、雑用も行う。不自由な身体で経営管理を行われる様子を見て、使用されていた先端技術に関心を持つ。

初めての出稼ぎ・一人暮らし。そしてようやく成人する。

 

同年11月〜12月:地元に戻り就職活動開始するも、恐慌の余波の中で難航。一時はネカフェ難民になり、住居もかなりキツめの心理的瑕疵のある事故物件を選ぶなどして、出稼ぎで得た収入を食い潰さないようにした。

そんな折、転職エージェントに学歴につき不適切な表現でガン詰めされ、活動自体が嫌になる。同時に、最初に働いていた社会福祉法人に戻る予定につき、結婚の予定ごと潰れる。

これで廃人になってもおかしくなかったが、価値観を変えることで生き残れた。

 

2010年(平成22年):モバイル端末最大手の電話によるカスタマーサポートとガールズバーの掛け持ちを始める。週4で働いて残り3日のいずれかは大学に潜るなど、ダメ人間と化す。人脈が出来て少し人生が豊かになる。21歳。

 

〜2011年(平成23年)9月:年の初めからコールセンターと不動産屋のパシリを兼業。3月、東日本大震災発生。この日たまたま出入りしていた商業ビル内の喫煙所で元夫と出会う。

 

同年10月〜:前述のパシリをやった会社に拾われ、人生で初めて正社員になる。不動産仲介業の営業事務として入ったが、結局、事務方にはならなかった。入社直後、とりあえず宅建取得。22歳。

気付くと別事業でやっていた自社管理物件のPM・BMもやり始め、地上げもやらされ、建設業の方にも首を突っ込むことになり、言うなれば何から何までやることになる。口を滑らせてPCを自作できる旨を伝えると、情シスみたいなことまでやらされた。しんどかったが給料はめちゃくちゃもらった。

 

2013年(平成25年):気付くとまもなく24歳。勤め先は震災後バブルが来ていた新事業に手を出そうとして揉めていた。パートナーシップ契約を締結している大手会社との競業関係になってしまうためだ。忙しくなりそうだったので鑑定などの資格を先に取得する。

結局新事業は走り出し、そこで営業マンとして大いに励むことになった。しかし蓋を開けてみると採算が取れない性質のものであり、会社が傾くきっかけになる。 

 

2016年(平成28年)初春:勤務先、事実上の破綻。この年、合格を目指していた試験の第一関門を通過。失業の予感はあり、逆に勉強に身が入った。

次の仕事はすぐ見つかったが、地銀の債権回収部門で精神をすり減らすことになる。法曹系の資格により即戦力扱いで始めたのは、所謂「取り立て屋」。住民票の転入出をひたすら追っかけて、最後が"除票"になっていなければ訴状を作る仕事。仕事は数か月と続かなかった。起業の準備と称して一時引きこもる。

 

同年下旬:27歳になるのと前後して、趣味でやっていた貯金と創業融資で不動産屋を始める。母方の尊属が母を残して全滅した関係で、その後なんやかんやあり、開発計画の噂があった地面が良い感じに転がり込んできた(とりあえず母名義で転がり込ませた)のが幸先良かった。

 

〜2019年(平成31年・令和1年):許認可目当てで事業買収するなどして規模を拡大。仲介、賃貸、買取、管理、内装・設備、設備リースの6事業を展開。個人でも大規模マンションの住戸などが転がり込んできて、運用を始める。

最高だったのは、仕事が勉強を兼ねる好循環が生まれ、念願の試験に合格したこと。家族や社員を抱えているため合格証を握りしめて自分の道を進むことは叶わなかったが、人生のクライマックスだった。

やがて私は30歳の節目を迎え、ややモラトリアムに。

 

2020年(令和2年)〜:例の病が日本に上陸する。緊急事態宣言の後、夏頃から業績に着弾。以降のことは思い出すと動悸がするので省略。ちなみに腎盂腎炎を発症した。31歳、憂世。

 

2022年(令和4年)冬:コロナ禍を乗り越えたかと思った時期、元夫について発覚したことがあり、色々あって離婚。33歳、厄年。

 

2023年(令和5年):会社は同業者の義実家が大株主となっており、離婚に伴うシビアな大人の事情で退任する。退任後、勤続年数の長い社員さんが集団で謀反したらしく、延々と助けを求められた。誰も悪くないので、気持ちよくファックサインすることもままならず。

離婚後すぐに新しい出会いはあったが、これも著しくダメだった。やっと見つけた「発達障害の仲間」だったが、成功体験を根拠に病識を手放したがる人であり、同時に一定の狭い対人関係について重い特性があった。別れてから秘されていたトラブルが次々に発覚し、対応せざるを得ない状況に陥る。裏切りという言葉は使いたくないが、完璧に人間不信になる。2009年以来のメンタル大恐慌

体にも不本意な異変があり、医学的処置を受けながら公の活動に励む。腹痛を覚えながらDiscordで普通っぽく話してたのは面白い。ここで限界に達し、発狂して今に至る。齢34歳、クリスチャンにも関わらず潜伏先で位牌を作るなど、奇行は未だ続く。

 

以上。